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島原遊郭に行ってきた!
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2016-01-05 17:00:00
島原遊郭に行ってきました。

室町時代に足利義満が現在の東洞院通七条下ルに許可した傾城町が日本の公娼地の始まりといわれる。
桃山時代(1589年)には豊臣秀吉の許可を得て、原三郎左衛門らが二条万里小路(までのこうじ)に「二条柳町」を開設した。
江戸時代になると六条付近に移されて「六条三筋町」と呼ばれるようになり、吉野太夫などの名妓が輩出した。
ところが、1641年にはさらに朱雀野付近への移転が命ぜられ、以後「島原」と呼ばれた。
「島原」の名称は、この移転騒動が島原の乱時の乱れた様子に似ていたためについたという説や、周りが田原であったため、島にたとえて呼ばれたという説など、諸説がある
-----出典wikipedia------
豊臣秀吉が1591年に造営した日本初の幕府公認遊廓。
(書いていて思ったのですが琉球王朝公認の辻遊郭は1526年ですから辻の方が歴史あるんですね)
であり元吉原をつくる際に町並みを真似て作ったといわれてます。
ご覧の通り六ヶ町に分かれて吉原の造りに良く似ています。
京都の島原、大阪の新町、江戸の吉原と三大遊郭として栄えました。
が、1851年の大火で殆どが消失し祇園新地で仮営業をしていたが大半は戻ることなく寂れていき
平成6年にはお茶屋組合も解散し普通の住宅街と化してしまいました。
住宅街の角を曲がると突然現れる大門。

この大門は1867年建立のものであり当時と同じ姿を残しています。
明治15年の写真と変わらぬ姿。
大門の他にも角屋、輪違屋の二軒の置屋が現存しています。
こちらは1641年竣工の角屋。
揚屋建築の唯一の遺構として、昭和27年(1952)に国の重要文化財に指定されてます。
角屋もてなしの美術館として角屋の建物自体と併せて所蔵美術品などを展示・公開しています。
(残念ながらお正月なので休みでした)
こちらは1857年竣工の輪違屋。
伊藤博文の寵愛を受け、「維新の名花」といわれた桜木太夫は輪違屋に在籍していました。
現在も現役の置き屋兼お茶屋として太夫を抱えて営業しています。
その他にも現在は住宅となっている遊郭跡もチラホラ
島原の歴史を見ると
「吉原みたいに体売ってる街とちゃいます。島原は遊郭やなくて花街どすからwww」
が非常に強いです。
まぁそうだったんでしょうが(京都花街組合連合会を脱会したため「京都の五花街」には含まれない=花街でもない)
島原を花街にしたのは明治以降の話で江戸後期にはかなり減っていたのでしょうが元は遊郭。
自慢の歌舞練場も1873年に出来たものですから。
前科者が犯罪者をバカにする勢いで吉原を格下にしなくても…と思いますが
京都人のプライドの高さなのでしょうか。
京都にはソープランドはありません(1971年に全店舗営業禁止。このため雄琴温泉に業者が引越し雄琴にソープ街ができた)
七条新地の流れを組む五条楽園も2010年に壊滅させられ、
『鬼龍院花子の生涯』の橋本遊郭もとうの昔に営業していません。(遊郭跡としては日本最大クラスで建物が残っているそうです)
臭いものには蓋をしろって感じですね
島原住吉神社。この右側には島原西門がありましたが1977年にトラックが突っ込んで大破。
3年後に門柱だけ再現しましたが1998年にまたトラックが突っ込んで大破したそうです。

こちらは樹齢300年の大銀杏。
かつてはここまでが神社の境内でしたが明治にに入っての廃仏毀釈運動により一旦廃社になりましたが
神木として銀杏の木だけは残りました。
その後、島原住吉神社は復活しましたが境内はぐっと狭くなりました。
この隣は東京では絶滅した“ちゃんこ両国”

大銀杏の根元には弁財天が祀られています。
ぶっ倒れたたぶん灯篭。
大門からぐるっと巡るとここが終点です。
2件の置屋は保存されてますがもう完全に住宅街です。
吉原のように人の出入りも少なく、住んでる人も遊郭跡なんて意識は無いのかも知れません。
遊郭でも花街でも良いですが人を呼びこまない事には寂れる一方ですからね。
吉原は戦争で全て焼けた跡に再建してますから奇跡的に空襲を逃れた“桜なべ中江”が1924年“土手の伊勢屋”が1929年ですから
京都に比べたら最近もいいところ。
売春はたしかに禁止されてますが歴史や建造物は残した方が良いのにな〜とぶっ倒れた灯篭を見て思いました…。
《ギャルコレ編集部 ブランキー酒井》

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